「セナvsプロスト 史上最速の"悪魔"は誰を愛したのか!?」を読んで [模型本]
367ページの本、約1週間で読み終えました。
プロストへのインタビューが2008年。1994年のセナの事故から14年も経過していますし、おそらくプロストが語っているセナへの思いやエピソードはすべて真実でしょう。それを前提でこの本を読んでの印象です。
セナはF1デビュー時から、当時チャンピオンのプロストを強烈に意識していたようです。完璧なドライバーであるプロストを破る(言い方悪いですが叩きのめす)ことに意義があると。またセナはチャレンジャーの立場であり、「死」については少しも考えたことが無いように私は受けました。
対してプロストは、1982年のジル・ビルヌーブの死、ピローニのF1生命が絶たれた事故に直面しており、「レースで死ぬのは御免」という考えです。兄弟ががんで死去の影響もあるようです。ピローニの事故の原因はプロスト自身が影響したと考えているようです。このレースは雨で視界の悪いレースで、以降、「雨でのレースは走りたくない(決して無理はしない)」という姿勢でした。
またプロストは、チームオーダーは破ってはならない、と強く思っていました。ビルヌーブの事故死はピローニがチームオーダーを破ったからだと。チームオーダーを破ることは死につながりかねないと考えたのでしょう。ですので1989年イモラでセナ(マクラーレン)がプロスト(マクラーレン)との「レース前の約束」を破ったときは二人の関係は決定的になったと思います。
セナは1988年チャンピオンになった後、シーズンオフのテストには不参加、休暇中でした。車のテストはもっぱらプロストの役目で、セナも乗り出しは「プロストと同じセッティングで」と言っていたようです。マクラーレンチームとMP4シリーズはプロストが作り完成させたと言って良いくらいだったのが、ホンダエンジン以降、ホンダのエンジニアは速いセナになびいて行ったようです。これら点を考慮すると、プロストが頭に来るのも理解できます。
1989年の鈴鹿でのプロストとセナの接触は、レース前、プロストはセナに「絶対にドアを開けない」と公言していたようで、事故=死を意識のプロストは、鈴鹿で最もスピードが落ちる(安全である)シケインのターンで接触させたというわけです。
対して1990年の鈴鹿での両者の接触は1コーナー手前。減速に入っているかもしれませんが、接触=死につながりかねない場所でのセナの接触でした。これもシケインと比べたらよほど危険な行為と思います。
1993年プロストがウイリアムズ・ルノーでチャンピオンを獲得、引退しました。セナは1993年オフ~1994年シーズン開始まで、よくプロストに電話したそうです。プロストにF1復帰してほしいこと(プロストはマクラーレン・プジョーをテストしたと書いてありました)、ウイリアムズの安全性について、相談していたようです。セナはプロストが引退して、F1での目標や走ることの意義がわからなくなったのではないでしょうか。また恋人の存在も大きかったように思います。セナ自身が目標を失って初めて恋人や家族のために生きることを強く意識しはじめたと想像します。1994年のサンマリノでセナは、バリチェロの大事故(セナは見舞いに言ったようです)、ラッツエンバーガーの予選事故死で、非常に神経質になっていたようです。
本から受けた感想、印象は以上です。プロストはセナの速さは認めていました。プロストとマクラーレン時代に組んだ元チャンピオンのケケ・ロズベルグはセナの当時マクラーレン移籍について、「プロストは本当に速い。プロストに勝てるはずがない。」 この言葉が強く印象に残りました。
プロスト目線の本ですが、1980年代からのF1が好きな方なら楽しめると思います。
さて今週8日(金)からセナの映画が封切りされます。TOHOシネマズでレイトショーなら1200円で見られそうなので、封切り日に見てこようと思います。
プロストへのインタビューが2008年。1994年のセナの事故から14年も経過していますし、おそらくプロストが語っているセナへの思いやエピソードはすべて真実でしょう。それを前提でこの本を読んでの印象です。
セナはF1デビュー時から、当時チャンピオンのプロストを強烈に意識していたようです。完璧なドライバーであるプロストを破る(言い方悪いですが叩きのめす)ことに意義があると。またセナはチャレンジャーの立場であり、「死」については少しも考えたことが無いように私は受けました。
対してプロストは、1982年のジル・ビルヌーブの死、ピローニのF1生命が絶たれた事故に直面しており、「レースで死ぬのは御免」という考えです。兄弟ががんで死去の影響もあるようです。ピローニの事故の原因はプロスト自身が影響したと考えているようです。このレースは雨で視界の悪いレースで、以降、「雨でのレースは走りたくない(決して無理はしない)」という姿勢でした。
またプロストは、チームオーダーは破ってはならない、と強く思っていました。ビルヌーブの事故死はピローニがチームオーダーを破ったからだと。チームオーダーを破ることは死につながりかねないと考えたのでしょう。ですので1989年イモラでセナ(マクラーレン)がプロスト(マクラーレン)との「レース前の約束」を破ったときは二人の関係は決定的になったと思います。
セナは1988年チャンピオンになった後、シーズンオフのテストには不参加、休暇中でした。車のテストはもっぱらプロストの役目で、セナも乗り出しは「プロストと同じセッティングで」と言っていたようです。マクラーレンチームとMP4シリーズはプロストが作り完成させたと言って良いくらいだったのが、ホンダエンジン以降、ホンダのエンジニアは速いセナになびいて行ったようです。これら点を考慮すると、プロストが頭に来るのも理解できます。
1989年の鈴鹿でのプロストとセナの接触は、レース前、プロストはセナに「絶対にドアを開けない」と公言していたようで、事故=死を意識のプロストは、鈴鹿で最もスピードが落ちる(安全である)シケインのターンで接触させたというわけです。
対して1990年の鈴鹿での両者の接触は1コーナー手前。減速に入っているかもしれませんが、接触=死につながりかねない場所でのセナの接触でした。これもシケインと比べたらよほど危険な行為と思います。
1993年プロストがウイリアムズ・ルノーでチャンピオンを獲得、引退しました。セナは1993年オフ~1994年シーズン開始まで、よくプロストに電話したそうです。プロストにF1復帰してほしいこと(プロストはマクラーレン・プジョーをテストしたと書いてありました)、ウイリアムズの安全性について、相談していたようです。セナはプロストが引退して、F1での目標や走ることの意義がわからなくなったのではないでしょうか。また恋人の存在も大きかったように思います。セナ自身が目標を失って初めて恋人や家族のために生きることを強く意識しはじめたと想像します。1994年のサンマリノでセナは、バリチェロの大事故(セナは見舞いに言ったようです)、ラッツエンバーガーの予選事故死で、非常に神経質になっていたようです。
本から受けた感想、印象は以上です。プロストはセナの速さは認めていました。プロストとマクラーレン時代に組んだ元チャンピオンのケケ・ロズベルグはセナの当時マクラーレン移籍について、「プロストは本当に速い。プロストに勝てるはずがない。」 この言葉が強く印象に残りました。
プロスト目線の本ですが、1980年代からのF1が好きな方なら楽しめると思います。
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さて今週8日(金)からセナの映画が封切りされます。TOHOシネマズでレイトショーなら1200円で見られそうなので、封切り日に見てこようと思います。
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90年の鈴鹿1コーナーのセナは明らかに酷かったようですね(^^;
でも遺恨としか言われなかったような。。。
対照的にシューマッハが同じようなことやった時は批判が酷かったですね。
これもセナ贔屓の余韻?
by のりドム&みさドム (2010-10-06 00:05)
日本人のセナ好きはHONDAイズムの賜物でしょうか?
by miyaP (2010-10-06 19:02)
のりドムさん
コメントありがとうございます。当時のセナはホンダと共に日本人から圧倒的に指示されていましたよね。しかしFISAから危険なドライバーとされ(プロストも危険でしたけど)ライセンス剥奪もありました。天性のドライバーであることは疑いも無いですが、同時にセナびいきがあったとは思いますね。
by mayupapa (2010-10-06 20:24)
miyaPさん
コメントありがとうございます。エンジニアの努力がすぐ速さとして結果が出たり、レースへの姿勢こそが、セナがホンダを引き付けた理由と思います。ホンダイズムでしょうかね。若くて端整であればなおさら日本人には魅力だったと思います。当時ををテレビ中継で見れて良かったと思いましたね。
by mayupapa (2010-10-06 20:31)